田野大輔著「ファシズムの教室 なぜ集団は暴走するのか」(大月書店)読了。
『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』共著でおなじみの歴史社会学者、田野先生による、いわゆるファシズムを体験する大学の実践授業についての本。
ベースにあるのは1967年にアメリカの高校で実際に行われたいわゆる「サードウェイブ実験」。ドイツ人がナチス政権の政策をどのように受け入れていったのかを体験する授業であろう。どういう条件下だと集団はファシズムに没頭していくのかを実践させていくもので、教師が「指導者」となり生徒たちに忠誠を誓わせる行動をさせる、制服やロゴを使用するなどで均一化した集団を作ることなどで規律・規範への従属化は進んでいく。
加えてこちらの授業では、教師の監視のもとで「実際に暴走させてみる」。サクラとして仕込んだカップルに「リア充、爆発しろ!」と罵声を浴びせさせる。最初はためらいながらも、教師が指示することで次第にその熱は帯びていく。権力のお墨付きがあることでファシズム的な様相は次第に拡張していく。頭ではわかっていながらカタルシスを覚える生徒たち。そして彼ら自身にそれを検証・考察させることなどを経て、その危険性も回避するなどいろいろ試行錯誤されているのがうかがえる。
普通の人も、権力のお墨付きがあれば個人の責任感から逃れて「権力者の道具」と自ら進んでなっていくというのは、ミルグラム実験やスタンフォード監獄実験でもあきらかである(個人的には事前に映画「THE WAVE」やそれらを題材にした映画を見てたので比較的すんなり読み進められた)。参加する人々が同質であることの帰属意識が一体感と独特の高揚感を生み出す。それらが権力と結びついたとき、人というのはいとも容易く「エスカレート」してしまうものなのだということが見えてくる。
本書でもヘイトスピーチに触れられているが、ナチスドイツがユダヤ人をスケープゴートにしたように、異なるものへの義憤や排除感情を煽ることもファシズムの典型なのであろう。異質なものに対する攻撃は均一化した集団から外れたものへの無理解であり、「彼らが自分らの権利を横取りしているのではないか」」という義憤(誤った正義感)であり。それらが直接的あるいは間接的にでも「権力がお墨付きを与える」ことによってエスカレートしていく。日本における在特会からアイヌ問題、埼玉のクルド人などヘイトの構図はみんな一緒なんだろう。政治がそれを黙認することは、まさにお墨付きを与えていることにほかならない。ファシズムは歴史の教材ではなくまさに目の前にあるものなのだという気がする。
ファシズムについて、ナチスのゲシュタポなどを持ち出すまでもなく、別に恐怖政治というだけではなくて「自発的にそこに与する人々」が下支えしたものであるというのは先の戦争での我が国でも一緒だと思うが、「ファシズムへの警鐘」が語られるとき、権力者の側だけに注目してしまい我々自身がどうあるべきかの意識が抜け落ちてるケースもあるので、そういう部分にも警鐘を鳴らした著作なのかもしれないなあと思いました。ファシズムを形成するのは他ならぬ我々自身なのだということで。